エジプトの神殿

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ピラミッドと並ぶほど有名なエジプトの建築物、神殿。建設当時はエジプトの神々を祭るための、信仰の場所として活用されました。神殿はピラミッド建築の衰微が進むにつれて発展し、ピラミッド付属の河岸神殿、葬祭神殿から大きく姿を変えていきました。

時代が進むにつれてピラミッドの建設量は少なくなり、建設技術も粗悪になっていきました。その反面、神殿建築は大きく発展し、ピラミッドの付属施設ではなく、神殿そのものが重要な役割を担うようになります。有名な神殿は、古都テーベ(エジプト名ワセト)にあるカルナック神殿や、ルクソール神殿。それから、上エジプトにあるアブシンベル大神殿などがあります。

神殿で最も目を引くものは巨大な列柱群であったり、巨大な人物像などです。これらの建築物も建設当時は壮麗な装飾、着色がなされていたといいます。こうした豪華な神殿も、新王朝時代の終わりとともに終焉を迎え、イスラム教文化の進出によって、モスクへと取って代わっていきました。

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右の写真はカルナック神殿の第一塔門手前にある、スフィンクスに囲まれた参道です。カルナック神殿とは、エジプトに現存する神殿の中で最大規模のもので、東西に500m、南北に1500mもの広さを誇っています。施設内部にはアメン神やムト神、コンス神などが祭られている小神殿がはいっていて、これらの神殿を作った数々の王もまた自分の名前を刻んだ小神殿や庭園などが点在しています。これらすべての施設を総合してカルナック神殿と呼びます。
カルナック神殿は、中王国時代にテーベが当時の都になってから約2000年もの間、数々の王たちによって増築を繰り返されてきました。その間、カルナック神殿を中心にしてアメン神信仰が国全土に布令され、王朝の富はこの神殿の増改築に集中されました。

神殿の所在、位置

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エジプトの神殿は、主に上エジプトに多く存在しています。左図では場所をわかりやすくするために便宜上、下エジプトのギザやアレクサンドリアを表記していますが、地名のみであって遺跡名ではありません。

ナイル川を上流にさかのぼって行くとまず見えてくるのがハトシェプス女王葬祭殿です。ハトシェプス女王葬祭殿は屹立する岩盤を背景にして立てられた3層のテラスからなる壮麗な葬祭殿として有名です。葬祭殿内部には彩色豊かな浮き彫りが施されており、当時の交易の様子などが描かれています。

その周辺にある遺跡はかの有名な建築王ラメセス2世の残した葬祭殿があります。ラメセス2世はこのほか、上流にアブシンベル大神殿と王妃のための小神殿を立てるなど多くの神殿を建設しました。ラメセス2世の建築には巨大な人物像が用いられることが多いのが特徴です。

そして、ラメセス2世葬祭殿のナイル川をはさんで東側には、百門の都といわれたワセト(ギリシャ名テーベ)で有名なルクソールがあります。中でもカルナック神殿は建設後2000年に及ぶ増築、改築を繰り替えし、今ではエジプト最大の神殿となっています。

そこからさらに上流に行くと、フィラエのイシス神殿があります。この神殿の最大の特徴はなんと言っても立地。ナイル川の中に浮かぶフィラエ島というところに神殿が建設されています。このフィラエ島は周辺にあるナイル川の中洲島と違い、緑豊かで昔からナイルの真珠と呼ばれてきました。イシス神殿には神々の様子を描いた浮き彫りが今も美しく残っており、その精巧なつくりには悪漢されるものがあります。

カラブシャ神殿はイシスの神殿の南西に位置する場所に、新王国時代になってから立てられました。カラブシャ神殿ではヌビア地方の太陽神マンドゥリウスを祭っており、マンドゥリウスやイシスにささげものをする王の浮き彫りが色鮮やかに残っています。

そして、もっとも南に位置している神殿がラメセス2世の作ったアブシンベル大神殿です。アブシンベル大神殿は長い間砂の中に埋まり近年になってようやく発掘されて日の下にその姿を現しました。その後、幾多の危機が神殿を襲いますが、1962年から1968年までの期間にユネスコによって、救済を受け、現在の位置に移築されました。

各神殿解説

有名な神殿をご紹介します。

カルナック神殿

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カルナック神殿は、当時のエジプトの首都ワセト(ギリシャ名テーベ、現在のルクソール)近郊に建設された、現存するエジプト最大の神殿です。

中王朝時代より建設が始まりその後2000年にもわたって延々と増築、改築、改修を続けて規模を拡大してきました。カルナック神殿というのは内部にある3つの要素、アメン神殿区域、ムト神殿区域、コンス神殿区域のすべてを総合した呼び方で、数多くの建築物が複合的に組み合わされて形成されています。

神殿は、牡羊の頭部を持つスフィンクスが両脇に並んでいる参道から始まり、第一塔門を抜けると列柱室とラメセス3世神殿があり、第二塔門を大列柱室があります。さらにおくに足を運んでいくと至聖所やトトメス3世祝祭殿などがあります。また、各地に増築に携わったファラオの名前が刻まれたオベリスクが建てられていて、歴史の重みを感じることができます。

また、この神殿より南西3キロほどに位置するルクソール神殿とは人頭のスフィンクスに囲まれた参道によって繋がっています。

ルクソール神殿

ルクソールはカルナック神殿の南西3キロほどの位置にある神殿です。元々はカルナック神殿の中心である形成するアメン神殿の付属神殿として建設されました。アメン神殿とは建設当初、スフィンクスの並ぶ参道で結ばれていたほか、神殿入口にはラムセス2世の坐像と、その手前にオベリスクが1本立っているのが特徴です。オベリスクは建設当初は左右に1本ずつありましたが、向かって右側の1本はフランスに運ばれてしまい、現在エジプトで確認することはできません。

この周辺の地名にもなっているルクソールですが、古代ではワセト(ギリシャ語でテーベ)と呼ばれ、エジプトの首都として栄えていました。ルクソールの語源はエルウクスール(城塞)というところからきていて、昔この当たりには城塞のある軍事的要衝となっていたことが連想されます。

アブシンベル大神殿/ハトホル神殿

アブシンベル大神殿は、エジプトでも屈指の建設王ラメセス2世によって建築された巨大な神殿です。位置はスーダンの国境近くのヌビア地方にあります。本来は現在の位置に建設されている神殿ではなく、1962年から1968年にアスワンハイダムの建設によって湖底に沈むところをユネスコによって移築されて、現在の位置に移動しました

内部の大列柱室は、他の神殿の列柱とは違い、高さ9mの直立像が並立しています。また、神殿奥にはプタハ神、アメン・ラー神、ラメセス2世、太陽神ラー・ホルアクティの4つの像が並んでいる部屋があり、春分と秋分の年に二日だけ、入り口から入ってくる朝日は至聖所を一直線に横切って、壁面の4つの像を浮かび上がらせるような仕掛けが施されています。

この神殿の北側にももうひとつの神殿があり、通称アブシンベル小神殿と呼ばれている、ハトホル神殿です。大神殿ほどの特徴はないものの、この神殿ひとつがラメセス2世の王妃のために作られたものだというのですから、スケールの大きさには驚かされてしまいます。

フィラエのイシス神殿

ナセル湖に近いナイル川の流域に浮かぶ島、フィラエ島。この島に立てられたのがイシスの神殿です。

アレクサンドロス大王がエジプトを制圧した後に、プトレマイオス朝によって建設されました。イシスは古代エジプトの神、オシリスの妹にして妻という立場で、オシリスが弟のセトに殺された後、イシスはオシリスの遺体を縫い合わせて包帯で巻き、冥界の王として復活させました。このような神々の様子を描いた壁画は、イシス神殿の中に今も色鮮やかに残されています。

また、イシスは古代ローマに受け入れられた唯一の神であるため、ローマの歴代皇帝はフィラエ島にキオスクを立てるなど、神殿の設備増強を図りました。  その後イシス神殿はアスワンダムが建設されることによって長い期間水没するという状態になり、劣化が進んでしまいました。その状況でさらにアスワンハイダムの建設が決まったので、ユネスコの手により救済され、2年半の歳月をかけて以前のフィラエ島より、現在のフィラエ島(当時のアギルキア島)に移築されました。

カラブシャ神殿

この神殿もラメセス2世によって建築されました。ヌビアの太陽神マンドゥリウスが祀られていて至聖所の壁画には神々にささげものをする王の姿が残されています、神殿は「支配者の家」という意味を持っています。

ローマ帝国時代に再建されて、4世紀ごろには至聖所がコプト教の聖堂として利用されるようになります。その後、アスワンハイダムの建築に当たって水没することが決まり、水没前にユネスコによって救済を受け、ナセル湖の西岸に移築されました。移築後の至聖所の屋上からはベトエルワーリ神殿を望むことができます。

ピラミッド付属の神殿

ピラミッドに付属されていた神殿というのは、河岸神殿と葬祭神殿の2つということになります。この2つの神殿の持つ意味合いをこれから解説、検証していきたいと思います。

まず始めに、葬祭神殿と、河岸神殿という二つの神殿は参道と呼ばれる道によって繋がれています。ピラミッドの建設にも何かしら関与したとされる見方もありますが、具体的に明快な答えは出ていないようです。

河岸神殿

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(写真提供:OsirisExpress)

河岸神殿は、ピラミッドより少し離れたところに位置する神殿で、参道によって葬祭神殿と繋がっています。河岸神殿の多くは、現在ナイル川より離れている位置にありますが、建設当時はナイル川のほとりに建設されていたようです。その後何千年の歴史の中でナイル川の流水経路が変化し、現在の位置に落ち着いたようです。

河岸神殿のつくりは運河側に1本以上の斜頚路が設けられていて、内部はほとんどが前廊と大広間、倉庫から構成されています。王が亡くなった際、河岸神殿までは王の遺体はきちんとした処置が施されているわけではなく、河岸神殿に到着した時点で、内臓の除去やミイラ作りが開始されると、長年の間研究者達の間では通説になっているようです。しかし、ミイラ作りが本当に河岸神殿にて行われたという明確な証拠は未だもって発見されていません。

葬祭神殿

葬祭神殿は、河岸神殿から参道をとおり訪れることができます。ピラミッドにあまりにも付属したような神殿の建設から見て、別名ピラミッド神殿とも呼ばれています。葬祭神殿は、実際に王の葬儀が行われた場所として使用されたと思われていましたが、部屋が葬儀をするには狭すぎることなどから、今ではなくなった王を追悼するための礼拝場として利用されていたのではないかという考えが主流のようです。

また、葬祭神殿の間取りは、当時の王宮とほぼ同じ構成になっているので亡くなった王の死後の世界での住居とも考えることができます。