エジプト関連辞書(た行)
第一王朝/The first dynasty <国>
B.C3100年頃から約200年に渡って存在していたとされるエジプト最初の統一王朝。それ以前にもエジプト全土を統一していたかどうかは別として王朝自体は存在していたが、便宜的にこの統一王朝を第一と定めた。初代ファラオはメニと呼ばれる人物であるが、アビュドス遺跡で発見された古代エジプトの資料によると、初代ファラオはナルメルとなっており、どちらが正しいものなのか、または同一人物なのかは未だ定かではない。この王朝の資料は殆ど残されておらず、わずかながらに残る資料に寄ると、アジア人との戦争を行いエジプトの武威を示していたということが確認されている程度である。
第一次世界大戦/World War I <用語>
1914年から4年間に渡って行われた世界規模の戦争で、大多数の国が参戦した。主戦場はヨーロッパであったが、戦闘そのものはアフリカ、東アジア、太平洋、大西洋、中東、インド洋でも行われた。 この戦争の結果、ヨーロッパでは実権的な君主制は廃止され、旧世界秩序の崩壊をもたらした。またドイツは多額の賠償金を課せられるなど、様々な方面で第二次世界大戦への禍根を残す事になった。
第一次中東戦争/First Middle East War <用語>
1948年から約1年間に渡って繰り広げられた、アラブ諸国とイスラエルの戦争。結果的にはイスラエルはこの戦争で勝利し、独立国としての地位を固めたといわれている。事の発端はパレスチナに入植してきたユダヤ人と、パレスチナ人との間で武力衝突であった。これに対し国際連合はパレスチナ人とユダヤ人の居住区を分けて、その近辺に国際連合の土地を保有し地域の安定に努めるというものであった。しかし、パレスチナ人は人口の少ないユダヤ人に土地の1/3以上を分配されるこの提案に反発し、衝突は収まるところを見なかった。 当時、ユダヤ人を後援していたイギリスにはこの事態を収拾する能力はなく、撤退を決定する。その後、ユダヤ人はユダヤ人国家であるイスラエル建国を宣言。それと同時に周辺アラブ諸国はイスラエルに対して宣戦を布告した。翌日から戦闘は開始された。アラブ諸国は兵力15万、対するイスラエルは民兵合わせて3万と圧倒的な戦力差であった。戦争が開始されてからしばらくしてエルサレム旧市街は陥落したが、エルサレム新市街のイスラエル軍は頑なに応戦したため戦争が泥沼化し、国際連合の手引きによって4週間の停戦が決定した。その間にイスラエル、アラブ両陣営では体制を整える結果となったが、戦闘再開後は第二次世界大戦を生き抜いたユダヤ人による旧型戦闘機での制空権確保などによって戦況は大きく覆る事になり、各地でイスラエル軍がアラブ諸国に勝利した。その後、1949年1月にはエジプト・イスラエル間で停戦協定が結ばれた事をきっかけにして各国家間でも停戦協定が締結され第一次中東戦争は終結した。これによってエルサレムのガザ地区はエジプト領となり、旧市街はヨルダン領となった。
第一中間期/The first interphase <用語>
古代エジプトにおける歴史区分で、第7王朝から第10王朝までエジプトが政治的に混乱していた時代を指す。古王国時代の長期にわたる平穏な時代が終わりを告げ、政治的に混迷した時代となった。メンフィスの政権は揺らぎ、地方の州候が勢力を伸ばしていたと考えられている。そんな中でエジプトにおける宗教観は変わり、冠婚葬祭が一般民衆によって執り行われるようになるなど、大きな変化をもたらした。 第7王朝 第8王朝 第9王朝 第10王朝
第二王朝/The second dynasty <国>
第一王朝に続くエジプト第二の統一王朝である。しかし、第一王朝時代よりもさらに現存している資料が少なく、断定できるものは何一つないというのが現状である。王権強化を目的としていたとされる第二王朝時代には、高まっていく王の権力に反発する動きを見せた地方豪族の為に、王権守護神が一時的にホルスからセトに変えられたことが大きな特徴であり、この動きを経てからエジプトの王権意識が確立したと考えられている。
第二次世界大戦/World War II <用語>
1939年~1945年に渡って繰り広げられた、世界規模での人類の大きな戦争を指す。明確な戦争の開始時期に関しては諸説あるが、主戦場はヨーロッパ及び、アジア・太平洋である。日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国勢力とアメリカ、イギリス、ソビエト連邦などからなる連合国勢力の2陣営に分かれて戦争が行われた。この戦争中に軍事兵器は飛躍的な進展を遂げ、誘導ミサイルやジェット戦闘機、核爆弾などが実用された。結果として連合国勢力が勝利を収める事になるが、その後は共に連合国勢力にあったソビエト連邦とアメリカの冷戦時代へと突入していく事になる。
第二次中東戦争/Second Middle East War <用語>
エジプト、イギリス、フランス、イスラエルの間で、スエズ運河をめぐる戦争である。第一次中東戦争に引き続き、中東で起こった大きな戦争のため第二次中東戦争という。スエズ戦争とも。スエズ運河はエジプトとフランスの資金援助により完成したが、それによってエジプトの経済は破綻したために、エジプトのスエズ運河保有株はイギリスに委譲した。その後、エジプトでは王政が廃止され共和制への道を歩む事になったが、新政府の軍備は弱かったために東側陣営であるチェコスロバキアから新兵器の輸入を行った。これに対してアメリカが反発し、アスワンハイダムの建設費用援助を断ち切るという作戦に出た。そのためにエジプトは再び経済危機に陥り、スエズ運河の国有化を宣言するようになる。 当然、運河の株を持っているイギリス、フランスはこれを承認するはずはなく、エジプトと犬猿の仲であったイスラエルをエジプトへ侵攻させた。イギリス、フランスの新兵器にて武装したイスラエル軍は強く、エジプトは防戦一方となっていった。そこにイギリス、フランスよりスエズ運河からの撤退が申し渡される。しかし、エジプトはこれを受け入れず戦争を継続したために、エジプトへの制裁を名目としてイギリス、フランスがエジプトへと侵攻を開始した。 戦争は継続し、エジプトの降伏も間もなくと思われた時、アメリカからイギリス、フランス、イスラエル3カ国に対して即時全面撤退を要求。これは連合国家であるアメリカがエジプトを支援するはずはないと思っていた3カ国にとっては大きな誤算であった。結局、3カ国はアメリカの要求どおりに撤退したため、エジプトはスエズ運河の国有化に成功し、なおかつキリスト教国家3カ国を相手に戦ったということで、アラブ世界で賞賛をあびる結果となった。これによって、アラブ世界におけるエジプトの地位は向上し、発言力をつけたと考えられる。 この戦争における3カ国の撤退時に、カナダの外相であったピアソンが国際連合に対してPKOの提案をした事によって、3カ国は名誉を損なうことなく撤退が可能になった。これが結果的に戦争の長期化を抑制する要因になったために、ピアソンはノーベル平和賞を受賞した。
第二中間期/The second interphase <用語>
古代エジプトにおける歴史区分で、第13王朝から第17王朝までエジプトが政治的に混乱していた時代を指す。異民族であるヒクソスが侵入してきて第15王朝を樹立していくつかの王朝が乱立していた時代を指す。エジプト史上最も繁栄した新王国時代へのさきがけとなるこの時代は、エジプトに大きな影響を残した。 第13王朝 第14王朝 第15王朝 第16王朝 第17王朝
第三王朝/The third dynasty <国>
この時代になると以前とは比べ物にならないほどの資料が存在するようになるため、ある程度詳細な部分まで当時の面影を偲ぶ事が出来る。この王朝では以前までの統治体制を大きく一変し、各地に州を設け、王の直轄地も各地に区分された。しかし、そういった国事での改革もさることながらこの王朝の最大の特徴はピラミッドの登場である。ジェゼル王によって、サッカラに建設されたピラミッドは第一王朝時代から連綿と王権神格化を努力してきたファラオたちの念願でもあったといえる。そしてこのピラミッド建設を期に、この後のファラオはピラミッド建設に没頭していくのである。
第三次中東戦争/Six-Day War <用語>
六日間戦争とも呼ばれ、イスラエルとシリア、ヨルダン、エジプト間で起こった戦争である。第一次中東戦争によってパレスチナの大部分をイスラエルが勢力下に置くこととなったが、ガザ地区とエルサレム東部はエジプトとヨルダンによって占領されていたために、ユダヤ教徒の間では巡礼できないことで不満が募っていた。一方ヨルダン国内ではパレスチナ解放機構が設立され、ユダヤ人に対して襲撃を繰り返していた。ちょうどその頃にシリアではクーデターによって政権が交代し、パレスチナ解放機構に同調する動きを見せるとイスラエルは住民保護の為に空軍にてシリアを攻撃した。こうした動きの中でソ連はKGBによって情報操作をするなどして暗躍、アラブ諸国も軍を編成して防衛線を張るなどしたために、イスラエルはアメリカに対して仲裁を要求した。しかし、アメリカは当時ベトナム戦争で手が回らなかったため要求に応じることは出来ず、焦ったイスラエルは先制攻撃に出ることで戦況を優位にすることを決断した。これによって会戦後わずか4日のうちにヨルダン、エジプトと停戦し、さらに2日後にはシリアとの停戦に成功した。この合計6日間のうちにイスラエルは戦前の4倍以上の領土を保有する事に成功した。しかし、停戦こそしたものの長くは続かず各地で紛争が相次ぐ結果となった。
第三中間期/The third interphase <用語>
古代エジプトにおける歴史区分で、第21王朝から第26王朝までエジプトが政治的に混乱していた時代を指す。しかし、この歴史区分は意見の統一を見ないために、第三中間期そのものが存在しないという意見も存在している。その特徴としては第22王朝以降、移住民の民族によって王朝が作られ、複数の王朝が乱立していたことである。 第21王朝 第22王朝 第23王朝 第24王朝 第25王朝 第26王朝
第四王朝/The fourth dynasty <国>
古王国時代の王朝で、ギザの大ピラミッドが完成した王朝でもある。そういった意味では今日に至るまで最も多くの影響を与え続けている王朝でもあり、当時の政治的、文化的な面でも際立って重要な時代である。 第四王朝ではヌビア地方の完全服従をエジプト史上初めて達成し、本当の意味での統一が実現した。また、シナイ半島への遠征では鉱山の確保に成功し、エジプトの原動力となるなど、多方面への進出で大きな成果を挙げることが出来た。それを受けて、クフ王はギザの地に史上最大のピラミッドを建設。その子であるカフラー王も巨大なピラミッドを建設した。また、クフの子であるジェドエフラーは治世は短かったものの自らをエジプト史上初めて「ラーの子」と称したことで後に大きな影響を与える事になった。
第四次中東戦争/Fourth Middle East War <用語>
イスラエルとエジプト、シリアが対峙した戦争。エジプト、シリアを援助する形でアラブ全域の国々が参加した。第三次中東戦争では、イスラエルの奇襲作戦によって敗北したアラブ諸国が、今度はイスラエルを奇襲する形で戦争が始まった。この戦争の背景となっていたのが当時のエジプトの大統領であるサーダートである。ナーセルの後を継いだサーダートは、ナーセルとは異なってイスラエルと早期に和平を結びエジプト経済を安定した状態で向上させたいと考えていた。このためにはアメリカが中東の平和維持活動に積極的になってもらう必要があったので様々な方策を行うがなかなか実に結びつかなかったために、アラブ諸国との関係を強化すると共に、イスラエルに対して奇襲作戦を取り、シナイ半島を攻略した。 しかし、その後アメリカからの物資供給などを受けて態勢を整えたイスラエル軍は反撃を開始し、シリア軍を破って首都ダマスカス付近にまで侵攻し勝利。その後もシナイ半島へ反撃を起こして勝利し、スエズ運河を渡ってカイロを攻略するほどの勢いであった。しかし、ダマスカス、カイロ共に攻め入ることはなく、途中で撤退している。これらの事から、ようやくアメリカとソ連が動き出しアラブ諸国とイスラエルの間に停戦協定が結ばれることとなった。この後、エジプトはイスラエルとの平和条約を締結するなど、和平に向けての一歩を歩む事になったが、それによってアラブ世界から孤立する結果を招き、裏切り者としてのレッテルを貼られる事になる。その結果過激派に所属するハリド・イスランブリ中尉によってサーダートは暗殺されてしまう。しかしその意思はホスニー・ムバーラクに受け継がれ、イスラエルに支配されていたシナイ半島の返還が成功するなど、着実に和平に向けて進んでいった。
第五王朝/The fifth dynasty <国>
第四王朝と密接な血縁関係にあるが、区分上では王朝が切り替わったとされている。この王朝では依然として多くのピラミッドが建設されているが、その規模、技術共に第四王朝を凌ぐものはなく、小さなピラミッドが点々と建設された。しかし、そのピラミッドにはピラミッドテキストと呼ばれる新しい碑文が導入されており、宗教上重要な意味があると考えられている。また、第四王朝のジェドエフラー王の影響が色濃く、太陽神ラーの信仰が非常に盛んだった。
第六王朝/The sixth dynasty <国>
古王国時代最後の王朝で、その初期には活発な対外遠征を行い周辺各地を征服したが、時代が進むにつれて中央権力が弱体化し、各地の諸侯が独立勢力となると、国家としての統率が取れなくなり、ここに古王国時代は幕を下ろす事になる。
太陽神/Sun god <用語>
太陽を信仰の対象として、神格化したものである。古くから世界の各地で太陽神と呼ばれる神が崇められていた。ギリシャ神話やエジプト神話などでは太陽神が男神であるが、太陽神が女神である神話も存在している。また、エジプト神話において太陽神ラーは様々中身と集合することでその権威を高めることがあった。第18王朝のファラオであるアメンホテプ4世は伝統的なアメン神から古の太陽神であるアテンに信仰対象を切り替えるなどの試みが行われた。
太陽の船/A solar ship <道具>
世界最古の木造船として有名で、ギザの三大ピラミッドの近辺で解体された状態で発見されました。現在は南東に位置している博物館にて確認する事が出来ます。この船は、ファラオが死後に太陽と共に昼は東から西へ、夜は西から東へと移動するために作られたと考えられています。現在2つ目の太陽の船も見つかっており、発掘などが急がれています。
太陽文字/Sun letter <用語>
アラビア語で定冠詞のalのlの音が後の文字とどうかする文字を言う。太陽を意味するshamsの文字が入るために太陽文字と呼ばれる。
ダハシュール <地名>
カイロから南へ来るまで90分程度の地域。古代ではスネフェル王が赤ピラミッドと屈折ピラミッドを建設したことで有名である。観光地ではあるがギザなどと比べてアクセスが悪く、また知名度も低いために周辺にはレストランやホテルは無い。観光で赴くのであればカイロからの日帰りツアーとなる。
ダビデの星/Magen David <用語>
中国や日本では六芒星と呼ばれ知られている形状を、青で塗りつぶしたものである。ユダヤ教やユダヤ人を象徴する証とされ、イスラエルの国旗にも描かれている。由来は名前の通りダビデに由来するものだが、正式には彼によるものではなく、後世になってから作られたものだといわれている。ナチスドイツでは、ホロコーストの際に目印としてユダヤ人にダビデの星を付けさせた。
ダマスカス/Damascus <都市>
シリアの首都でダマスクスとも言う。世界一古くから人が住み始めている地域として有名である。都市圏全体では400万人に登る人口を抱えており、中東における重要な都市でもある。 古代からシリア地方の重要な都市として機能していたが、10世紀になるとアラム人の王国が立てられるようになった。しかし、その後は新バビロニアなどに滅ぼされたために独立体制は失われてしまう。しかし、ローマ帝国支配下において文化的に重要な中心都市となり、自由都市連合の名誉でもあった。その後はイスラム帝国、オスマン帝国とかわるがわる支配されたが、民族意識の勃興に伴って独立を果たした。エジプトの英雄であるサラーフ=アッディーンもこの都市に墓を建てられた。
ダリー語/A language of Dally <用語>
アフガニスタンの公用語のひとつで、タジク語と同じく基本的にはペルシャ語であるが発音等を中心に若干の違いがある。西欧からの新しい借用語ではペルシャ語ではフランス語からの借用語が多いのに対して、ダリー語では英語からの借用語が多い事が特徴として挙げられる。また、元々よりパシュトー語やウルドゥー語からの借用語が多いのも特徴の一つである。
ダレイオス3世/Dareios 3 <人物>
王位継承前の名はアルタシャタ。アケメネス朝ペルシャの最後の王で、前王が宦官によって暗殺されると傍系の王族に位置していたダレイオス3世に王権がめぐってきたため、王位に就いた。前王と同様宦官によって暗殺されそうになるが、それを察知したダレイオス3世は宦官を毒殺し、自分の地位を守ったとされている。 しばらくの後、アレクサンドロス大王の侵攻によって領土が脅かされたために出陣、グラニコス川の戦い、イッソスの戦いと連敗したために、古代マケドニア軍がエジプトに入っている間に態勢を整え、再度ガウガメラの戦いで決戦をした。しかし、この時も敗北してしまったため部下の信用を失い、側近であったベッソスによって殺害された。
チグリス川/The Tigris <地理>
ティグリス川ともいい、世界四大文明の一つであるメソポタミア文明の揺籃となった場所。トルコを源流として多くの支流を持ち、平行して流れるユーフラテス川と合流してシャッタルアラブ川となり、ペルシャ湾に注いでいる。チグリスという名は西洋諸国の言語に由来しており、現地アラビア語などではディジュラと呼ばれている。全長1800kmでサダム・フセインの故郷であるティクリートもこの川の付近にある。尚、ティクリートの名前はチグリス川に由来している。
地中海/Mediterranean sea <地理>
北をヨーロッパ、南をアフリカ、東をアジアに囲まれた地中海は、本来Mediterraneanと呼ばれ、日常会話では縮めてThe Medと呼ばれている。地中海の海域の中にはアルボラン海、リグリア海、ティレニア海、アドリア海、イオニア海、エーゲ海が含まれており、これらを総称して地中海と呼んでいる。また、東に繋がっているマルマラ海を地中海に含める事もあるが、それに連なる黒海は地中海の海域には含めないのが一般である。現在は西を大西洋と繋がり、南東をスエズ運河によって紅海と繋がっている。内海である為に比較的に並が穏やかで、地中海沿岸の地帯は地中海性気候とよばれる、夏に乾燥、冬に湿潤な気候になる。
中王国時代/In the days of a middle kingdom <用語>
古代エジプトにおける歴史区分で、第11王朝と第12王朝がエジプトを統一していた時代を指す。しかし、学者の中では第13王朝と第14王朝も中王国時代に区分するべきと唱えている人もいるようである。この時代は主にエジプトの文学などが開花した時代であり、政治的、教育的文学において成熟した時代でもあった。 第11王朝 第12王朝
中世/The Middle Ages <用語>
現在考えられている歴史区分のひとつで、古代よりも後、近代よりも前の時代を指す。ヨーロッパにおける歴史を参考にして考えられた歴史区分なので、広く世界的に同時期に当てはめることは難しいが、大枠当てはまることから現在の歴史学において利用されている。現在歴史の再検討が行われているが、ヨーロッパにおける中世は暗黒時代であるという見方が根強く残っている。
中東/The Middle East <地域>
アフガニスタンを除いた、インド以西の地域の総称で、日本では北アフリカ地域のイスラム教国家を含む地理的概念として根付いている。本来の意味合いはイラン周辺の諸国家をあらわす言葉として使用されていたが、第二次世界大戦後、利用しやすい地理的概念に次第に変化して行き現在の広範囲な地域を示す言葉になった。
中東戦争/Middle East war <用語>
ユダヤ人国家であるイスラエルと、周辺アラブ国家間の戦争の総称。既に4回の大きな戦争が起こっており、それぞれを第1次中東戦争~第4次中東戦争と呼び分けている。 元々、パレスチナの地にはユダヤ教を信仰するユダヤ人が住んでいたが、新バビロニアの攻撃によってユダヤ人はヨーロッパを中心にして離散した。その後にイスラム勢力が長い期間支配していたが、第一次世界大戦時にパレスチナを支配していたオスマン帝国が連合軍によって敗北した事をきっかけとして、イギリスとフランスが分割統治を始めた。ちょうどその頃ヨーロッパではシオニズム運動が起こっていたためユダヤ人はパレスチナへの帰還を強く望む傾向にあった。 初めはイギリスもユダヤ人のパレスチナ入植を制限しなかったが、パレスチナへ帰還したユダヤ人は以前よりその地に住んでいたアラブ人などとの友好を望まなかったために、それまでアラブ人と(パレスチナに残っていた)ユダヤ人の間にあった友情は失われてしまった。急激に増加するユダヤ人を警戒したアラブ人はイギリスに対して入植を規制することを要請したため、イギリス側はこれを承諾。入植に規制を加える事となったが、ユダヤ人は爆弾テロなどで反発したため手に負えなかった。結局、規制は効果を発揮しないままパレスチナのユダヤ人人口は増加の一途をたどったため、国際連合においてユダヤ人とアラブ人それぞれの国家を分割して建設する事を決定した。しかし、人口の半数に満たないユダヤ人に多分な領土が与えられた事に対してアラブ人は納得できるはずもなかった。そのためにユダヤ人とアラブ人の間の亀裂は収まることがなく、幾度とない武力衝突を生んだのである。
チュニジア共和国/Republic of Tunisia <国家>
北アフリカに位置する国で地中海に面している。アルジェリア、リビアと国境を接しており、地中海対岸にはイタリアがある。 古代にはフェニキア人が移住し、この地を交易拠点とした。その時に作られたのがカルタゴという都市だが、ローマ帝国との3度にわたるポエニ戦争で滅亡し、以後はローマ帝国の属州としてローマ化が進み、キリスト教が伝来するなどして繁栄した。優良な属州であったが西ローマ帝国滅亡後にはヴァンダル人が侵入してきて王国を作るようになった。ヴァンダル王国は海運業によって繁栄したものの、東ローマ帝国によって滅ぼされ再びローマの属州となった。 その後は7世紀に入ってイスラム教アラブ人が侵入してきたためにイスラム国家のひとつとなり、何代にも渡って数々の自治王朝が建国されるようになった。その後、イスラム世界で台頭したオスマン帝国の属領となったが、オスマン帝国から派遣されてきたベイと呼ばれる軍司令官はイスタンブールのオスマン帝国から独立した統治を行うようになった。しかし、富国強兵に偏った政治のために経済は破綻してしまい、次いでフランスが侵攻して来た為に保護国となった。保護国となってからのチュニジアでは多くの要職をフランス人が行う事となり、ベイは名目のみの君主となってしまったが、1900年代に入ってからはチュニジアの独立を目的とする結社が作られるなどしたためにフランスは独立を承認し、チュニジアは王国として独立した。しかし独立から1年あまりで王政は廃止され、共和国となった。 現在のチュニジアはイスラム世界では比較的穏健な国家であり、観光地としても人気があるため、経済的には良好な国家である。また、中東と西洋のパイプ的な役割を果たして活動している。
月文字/Moon letter <用語>
アラビア語で太陽文字以外を月文字という。定冠詞のalのlの音が続く単語の音と同化しないものを言う。
ツタンカーメン/Tutankhamen <人物>
古代エジプト第18王朝のファラオで、アメンホテプ4世の女婿。厳密にはトゥトアンクアメンという。アメンホテプ4世がアテンを唯一神としたアマルナ改革を実施したが、ツタンカーメンが王位についてからは伝統的なアメン信仰に変更し、多神教の元の姿に戻したとされ、その時に都もアケトアトンからテーベに戻したとされている。即位した当時は年端もいかない少年だった事がわかっており、その後若くして死するまでの人生そのものが歴史のミステリーとなっている。ツタンカーメンが死んだ原因としては他殺説などもあり、アンケセナーメン、アイ、ホルエムヘブなどが容疑者として考えられている。 また、ツタンカーメンの墓は王家の谷でイギリスの考古学者、ハワード・カーターによって発見されておりその最大の特徴は、3000年以上もの長い間に盗掘を免れ埋葬品がほとんど無傷の状態で残されていた点にある。現在その多くはエジプト考古学博物館にて一般に展示、公開されている。また、発見に携わったハワード・カーターのスポンサーであるカーナヴォン卿が急死するなどの事態が起きたため、ファラオの呪いではないかと言う噂も流れた。
ディアスポラ/Diaspora <用語>
ギリシャ語で「散らされたもの」という意味の言葉で、特にパレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人のことを指している。ユダヤ人以外の民族を対象に取って「政治上の理由などから、本国を離れて暮らす人々のコミュニティー」という意味でこの名称を適用することもある。ギリシア人、フェニキア人、アルメニア人、華人などが似た側面を持っていると言えるが、ユダヤ人とは違って彼らはあくまでも思想的な背景はない。
ティグリス川/The Tigris <地理>
トルコを源流として流れ、ペルシャ湾に注ぐ川。詳細はチグリス川を参照。
ディジュラ/Dijla <地理>
チグリス川のアラビア語での表現。
テーベ/Thebes <用語>
テーベは現在のルクソールに相当する古代エジプトのアメン信仰の中心地で、第11王朝から第18王朝の首都として栄えた都市である。ナイル川の東岸で地中海から南に約800kmほどの位置にある。第19王朝期には首都がテーベからデルタ地帯へと遷都されたが、アメン信仰の中心地としてその後も重要な地位を保ち続けたと言われている。百門の都と謳われ、1000年以上もの間改修、増築を繰り返されたカルナック神殿などが周辺に残されている。 旧約聖書には「ノ・アモン」として出てくる他、ルクソール神殿とカルナック神殿というテーベ近郊の2つの遺跡名はアラビア語によって名づけられたものである。現在ではナイル川西岸にあるハトシェプスト女王葬祭殿や王家の谷もテーベの一部であると見なされている。
テフヌト/Tefnut <神>
エジプト神話の神で、アトゥムによって兄であるシュウと共に性別を持つ最初の神として誕生した。湿気をつかさどる女神であり、頭は獅子を象っている。シュウの妻となり間にゲブとヌトという神をもうける。
デモティック/Demotic <用語>
古代エジプトで使用されていた3種類の文字のうちの一つ。ヒエログリフと呼ばれる神聖文字が始めに使用され、神官などにも使いやすいヒエラティックが作られた。その後に民衆にも使いやすいように改良されたデモティックが開発されたと考えられている。一般に石に刻むなどの正式な文字はヒエログリフを使う事が多かったが、デモティックで石に刻まれた文字なども発見されている。最古のデモティックはB.C660年頃のものが発見されておりB.C600年には一般化した。しかし、4世紀に入るとエジプトでもギリシャ文字が使用されるようになったため衰退した。
テル・エル・アマルナ/Tel El Amarna <遺跡>
エジプト中部ナイル川東岸に位置する古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世がテーベより遷都した都である。古代エジプト名は「アテンの地平線」を意味するアケトアテンとされ、現在ではテル・エル・アマルナと呼ばれる。 アメンホテプ4世が宗教改革を完成させるために処女地であるアケトアテンに造営を開始してからツタンカーメンによって放棄されるまで15年ほど首都として使用された。後に異端の都としてほぼ完全に破壊放棄されたため、遺構の基礎部分の保存がよく、古代エジプトの都市のプランを知りうる数少ない遺跡の一つとして重要視されている。
天動説/The Ptolemaic theory <用語>
宇宙の中心に地球があり、すべての天体がその周りを公転しているという学説。エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と呼ばれるものと、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合には、後者を指す事が多い。
ドイツ人の聖母マリア騎士修道会/Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum <用語>
俗に言うドイツ騎士団。カトリック教会から認められた騎士修道会の一つであり、本来はパレスチナでの聖地巡礼者の保護を行っていたが、イスラム教にパレスチナを奪われてからはプロイセン王国建国へと繋がる東方植民の先駆けとなった。 プロイセンを領有するに至ったドイツ騎士団であったが、その後は強大なポーランド・リトアニア連合軍の前に図版を縮小し、臣下となった。その後紆余曲折を経てドイツ騎士団が世俗的に統一する国家は失われたものの、現在も慈善団体としての活動を行い、各地で業績を上げている。
ドーリア人/Dorian <用語>
アイオリス人、イオニア人と並ぶ古代ギリシャのギリシャ人を構成した3大集団の一つ。スパルタを中心としてペロポネソス半島に定住していたが、トロイア戦争などでミケーネ文明が衰退すると鉄の武器で武装して周辺都市を制圧していきアナトリア半島、南イタリア地方など、広範囲を支配した。
トトメス1世/The first Thutmose <人物>
エジプト第18王朝の3代目ファラオ。アメンホテプ1世の実子を差し置いてファラオの位に就いた。しかし、それは謀略的なものではなく、アメンホテプ1世に実力を認められて後援を受けたからだとされている。即位前は優秀な軍人であり、シリア、ヌビア方面へと遠征を繰り返して多くの領土を手に入れ、第18王朝最初の絶頂期を築き上げた。その後もアメンホテプ1世の後援を受けながらアメン神官団とは良好な関係を維持し、アメン神殿の造営を継続した。
ドロイゼン/Johann Gustav Droysen <人物>
(1808-1884)ドイツの歴史学者で、「ヘレニズム史」において、ヘレニズムという時代概念を提唱した人物。小ドイツ主義の歴史家グループであるプロイセン学派の中心人物として活躍した。